「今日の授業はよかった」と思っていたのに、授業後の感想を読んでいくと、それほど力になって いないと思えることが時々ある。
その授業では、期待をする発言に引き込まれ、言葉を選ばす、次々と話題を広げていることが多い。「先生、もう少しゆっくり考えさせてよ」というような表情に出会う。
「今日の授業は楽しかった」という声が生まれる時は、例外なく子供が主体的に活動し子供自身が主人公を演じている時である。
そのような授業は、教師の姿はそれほど目立たないが、きめ細かな配慮がある。このきめ細かなというの
が難しい。
ある研究授業で、幼稚園から高校までの先生が同じ授業を参観する機会があった。
幼稚園の先生は、子供の素直さに目をとめておられた。中学の先生は「板書を早く、丁寧にノートに写していたのが良かった」という感想を述べられた。
高校の先生は「授業が始まる前に机の並びを整え、学習に必要な教科書や鉛筆の用意する所まで丁寧に指示をしたのがよかった」という感想であった。
よい授業をしようとすると教材や教具を色々と用意をし、目新しいものをするのが大切だと思われているがそうではない。物珍しさは、一時の気持ちを動かすことはあっても、長続きしないことが多い。
国語の授業は、文を読む、正しい漢字を使って文を書く、自分の考えを正しく
適切な言葉で伝えるということを繰り返す学習である。派手ではないが、読む書くを繰り返すという古典的な授業が本当の力を育てるのである。 |