ピカピカのランドセルを背負って一年 生が入学してくる。その日を待っていたように桜が咲く。
嬉しさを体一杯に表す子や少し控えめに喜びを表す子等。ふとチューリップの歌「どの花みても
きれいだな」という歌詞を思い出す
4月は一年生が学校を華やかにする。教室で目立たない子が、一年生に優しくしている。一年生がこの子の良さを引き出したのだと思うようになる。朝礼や集会では、なにやら難しい話しを聞く。
しかし、内容を理解することより、学校という仕組みを体で覚えていく。
毎日が新しい。この新しさを、家庭でどんな言葉を使って伝えているのだろう。
国語の授業の中に、このような日々を生かす単元があったも良いと思う。
一年生だけではない。二年生も三年生もみんなうれしい新学期である。かつて、二年生を指導したとき、初めての作文「二年生になって」という題で書かせたら通り一遍の作文だったのに「二年生になったぞ」と文末を変えただけで生き生きした文章を書くようになって驚いたことがある。「ぞ」の一文字が心を捉えたのある。
「教育」もまた同じ。「教」に力を注ぎつつ「育」の視点から見ていくと新しい指導の知恵が生まれる。
人間関係ができていない4月は様々なトラブルが生まれる。相手を試すような言動もある。
これを学習に生かす方法を考える。これが楽しい。心の温まる言葉を教室に広げたい。あれやこれや夢が広がる。教師にとってもうれしい4月である。
「教育」を「教」と「育」のバランスで考える。例えば忘れものをした子がいる時、「新学期早々困った子」と捉えると注意をするだけのになり「教」にとどまる。
見方を変えてこれを生かせないものか」と知恵を絞ることが「育」になる。例えば、宿題を忘れないでできた子の昨日の一日を語らせる。計画的にしてきた子もいるが、夜中に思い出して眠い目をこすりこすりした子もいる。遊びを辛抱して宿題をした子もいる。「忘れ物」がきっかけになって子どもの群像が見えてくる。それを教えてくれた子が目の前にいる。「育」に配慮した時、豊かに考えが広がる。豊かさが言葉になる。
言葉を通して心が届く。視点を変えれば陳腐なことも新しく見える。それが4月である。 |