公開授業を参観した。「海の命」の最終場面をどのように読むかということを話題に子供達が討議し ていた。
「太一(主人公)が自分の生きてきた姿を封印した」
「太一のプライド」等、子供達なりの言葉が飛び交った。
当然、秘密を他に知られたくないという素朴な考えもあった。
自らの読み方を持つこともすばらしいが、それを発表し共有することも価値があると思いながら、話し合いの展開を期待した。
せっかちな私なら、「プライド」「封印」という言葉の魅力にひかれて話題をその方向に導いているであろうと思って子供を見ようと思った瞬間、「封印っていっていることが分からない。ぼくに分かるように言ってください」という発言が出た。それを支えるような雰囲気が教室を包んだ。
「答えていいですか」と確認をしてから、封印を発言した子が自分の考えを説明しようとしたとき、教師が、
「あなたの言っていることは先生にはよく理解できる。でも、わからないと言う友達も
いるので分かりやすく言えるかな」と言葉を挟んだ。
絶妙のタイミングである。「先生にわかる」がいい。一呼吸置くという間もいい。
学習の節を作るタイミングであった。
「ぼくの言っていることで分からないのは、次の事だと思う」
と話題を整理して話が進んだ。更に話題が広がり、視点が変わったとき「納得」という発言がでた。
すかさず「何に納得したか説明してほしい」という注文が生まれる。
子供同士が互いに磨き合う姿をドラマにするとこのようになるのだろう。
多くの授業は教師が行ってきた「分かるように言ってください」「何に納得したのですか」
を子供が求めていることに心が動いた。
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