教師になってよかったと思えるのは、些細に見える事に感動し自らの喜びを返してくれる時であ る。それは笑顔だったり握手であったりするが、言葉であればも っとうれしい。
花の花粉をとって、顕微鏡で観察をした授業。
花粉は、各自が採集をしてプレパラートを自分で作った学習の後
「先生、学校はどうして塾でやらないことをやるの」
と、話しかけてきたという。授業の感動をこのような言葉で伝えたのである。
この子は、塾ではかなり優秀な成績で、学習とは覚えて、答案に答えを書くと思いこんでいたのであろう。
しかし、塾では得られない学びの感動を、こんな言葉で表現をしたのである。
この教師の授業は、いつも子どもに本物の体験をさせたいという願いから事前の準備を丹念に行い、納得するまで教材研究をしている日々である。
例えば、硫酸銅の結晶の本物を見せたくて、かなりの時間をかけた結晶作りをする。
水草の呼吸や光合成の様子を子どもに見せたくて、事前準備を深夜遅くまで実験室に取り組んむという熱心さである。
これほど熱心に授業準備をしても、教師の期待通りに授業は進まない。
時には、実験の途中で学習秩序をみだしたり、実験の約束が守れなかったりして、教師をがっかりさせることもある。教師の意図通りに動かないのが子どもであるとすれば、それを越える知恵を開発するのが研究であろう。
塾では学べないことが学校にはある。塾に軸足をおく子が、このように学びを喜びに気づくには授業の工夫は当然であるが、自らの感動を、このような言葉で表現する力を育てる責任は国語科である。
実験中ルールを守らなくて中断にした授業で、教師の期待に応えることができなかった
反省や悔いを、自らの言葉で表現できること、ほんものの言葉の力と考えたい。
かぼちゃの花を観察した時、「かぼちゃの花ってこんなに小さかったの」と驚きの声を上げる子がいた。
この子にとって「かぼちゃの花 」は図鑑や教科書では知っているが、実際に見たのは初めてなのであろう。
しかも写真では、砂漠も山も花も同じ大きさで編集されいる。
常識では、大体の大きさは理解できていたのであろうが、実際との違いが、この言葉になったのである。
理科の担当教師は、「こんなに小さいの」に感動し、指導にますます意欲を燃やしたのは言うまでもない。言葉の力として心に残るちょっといい話である。 |