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楽しさ・豊かさ・新しさのある授業を
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1、楽しさ・豊かさ・新しさのある授業

 文学作品を読むことが子どもにとって楽しいのは、主人公に身を寄せ、出来事を見守っていくことにある。難問をどのように解決していくのだろうとか、経験したこともない新しい世界の中での出会いを楽しんだりすることにある。それは子どもの言葉で言えば「面白い」「かわいそう」ということになる。

 子どもたちが文学作品を素直に楽しんでいるのに、授業となると急に、子どもの思いとは距離のあるものになってしまう。

 従来の多くの授業が、確かさや豊かさに傾斜をかけていたからである。そこでは、具体的には指導し観に合わせて場面を切り、文章の順を追って読ませることが多くそれが当然と思い込んでいた。発問もまた「気持ち」を尋ねる、教師の読みの深さや広さに近づけることを目的としたことが多かった。

 その結果として、こんな読み方がしたい、味わいたいという思いよりも教えたいという子とが先行していたことは事実である。豊かさは当然、確かさを基盤にして成立するものであると考えるとき、楽しさへの着目も必要であろう。

 楽しさ・豊かさ・新しさへの思考は、子どもの側に立っての授業構想の視点である。楽しさは様々な解釈があるにしても、大事にしなければ行けないし、豊かさは文学作品を学習する上での生命線である。そのために教材を研究し工夫を凝すことが求められる実践を試みてきた。新しさは子どもが学ぶことに新しさを感じているかということが学ぶことの力になると考えての設定である。

2、「演じる」の効果と課題

「演じる」ことは楽しさ・新しさにつながる学習活動の開発の視点である。それは、体験・理解・

表現という過程で捉えれば学習の体験化につながる。ここでいう学習の体験化とは次のような要件をふまえたものを考えている。

    ・子どもが学習の目的を明確に理解し、めあてを持って学習にとりかかること。

    ・子どもが学習の方向や方法に見通しを持ち、主体的に活動したくなる状態が生み出されること。

    ・子どもが言語活動をに浸り、喜びや楽しみ合うことにやりがいを見いだしていること。

    ・子どもが学習に集中しある一定時間(あるいは期間)継続して取り組んでいること。

    ・子どもが学習をした結果としての満足感・充実感を持てるものがあること。

「演じる」ことは子どもが文学作品の内容に深く関わることで有効な学習活動であろう。例えば、「劇をしよう」「戦いの記録を書こう」等学習体験という面からみるとその要件を満たしている。提案の「演じる」は、@活動全体の流れが子どもにはっきりと分かること、さらに学習方法や技能が定着すれば次に学ぶ文学作品にも生かせるという利点がある。

 ところで、「演じる」は豊かな言語活動を拓くことが前提になるものと考えたい。最近、関心・意欲や態度の育成といういわゆる形式陶冶面を重視する余り、内容の習得を目指す実質陶冶面、つまり「国民として必要とされる基礎的・基本的な内容」の習得がおろそかになっているような傾向がある。

 内容を欠いた関心・意欲や態度の育成は、稲富栄次郎博士の言葉を借りるならば「物を見せないで視覚を陶冶し、音を聴かせないで聴覚を陶冶するの愚」ということになる。精選された内容の習得を通じて意欲や態度を育て、あるいは、関心・意欲、態度の育成を通じて内容の習得を図るというように実質的陶冶と形式的陶冶とを同時的・統一的に行うことが大切である。

 この立場に立つとき、「演じる」がどこまで言葉の本質に迫れるかが課題であろう。「劇をしよう」「戦いの記録を書こう」という設定は、子どもたちの意欲を喚起する。しかし、どこまで任せるのか、どこで指導の手を加えるのかについての考えを明確にしないと、「活動あっての学習なし」という心配が残る。「演じる」ことが、結果なのか過程なのか、「演じる」がそのまま理解の表れなのか等の問題もある。「分かる」ことが、「できる」ことにそのまま結びつくという考えなのだろうが、それをどう捉えるかは難しい。このようなことから「演じる」ということで気になることを挙げると次のようになる。

    ・「演じる」は、子どもが分からないと思っていることが大事にすることになるのか。

    ・「演じる」は、文学作品を読んだ子どもの中にある素朴な疑問や問題、子どもが「きっとそうだろうな」と思っ    ていることを確かにしていくことになるのか。

    ・「演じる」は、子どもが考えてもいなかった新しい見方や考え方に導くことになるのか。

    ・「演じる」は、互いの考えを認め合い、共有していくことに喜びを感じるものにつながる活動になっていくの     か。

 これらは、授業を子どもの側からみる時の課題である。「演じる」がこれにどう関わるのか注目したい。

3、今、国語の授業はー課題と展望

 文学作品を読むということは、子どもの中に新しい世界をつくりことである。読むことはその人の経験や考え方と深く関わってくる。読むことは一過性のものではなく、読み手の生き方を巻き込んで成立をする。子どもの言葉で言えば、読む度毎に新しさのある「発見読み」をを大事にして授業を考えている。このことを考えてきた背景に国語の授業に対する次のような思いがある。

    ・ 国語の授業は、本当に言葉の力をつけてきたか。(言葉の論理性)

    ・ 楽しければ言葉の力がつくか。(多彩な学習活動の持つ強さと脆さ)

    ・ 目標や学習の見通しが子どもの持てているか。(子どもの立場に立つということ)

「この授業は、子どもにとって何だったのだろうか」と考えるとき子どもはいつも教師の期待をする事に関わったいるのではないということがはっきりしてくる。しかし、授業で子どもは育っていく。その育ちを大きく包む教師の目が大切になってくる。「かさこじぞう」の指導で動作化をさせたことがあった。子どもたちは得意になったじいさまやじぞうさまになって動作で表現をしたが個々の子どもによって表れが違った。その違いが読みを豊かにするきっかけになったことがある。また、「わらぐつの神様」では、子どもの読みを「文章に表れたこと」「文章には表れていないが文章からわかること」という視点で読ませた結果、読むことへの感動と共感が生まれたという実践の経緯がある。

授業ということを文学作品、それだけに光を当てるのでなく、文学作品を読み合う人間関係、そして、学ぶことによって得た学習方法や技能という面から考えるとき「新しさ」見えてくるような気がする。

 
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