生命の尊重について家庭でも学校でも教育問題して取り組みを始めてから久しい。しかし、日を追 って悲惨な出来事がニュースとして飛び込んで来る。
かつて、小学校の教壇に立っていた経験か らいっても、小学生が小学生を殺すというような事は 考えたこともなかっただけに、それが現実として起こったということをどう受け止めればよいか戸惑う。それだけではない。毎日のように、死者何人という文字がテレビから茶の間に飛び込んでくる。いつの間にか、一桁二桁では驚かない位に麻痺している。当然、子供達もそうであろう。生命を大切にする教育は腰を据えて取り組まなければならない緊急課題である。
生命が軽く考えられるようになったなと思った出来事はの一つに次のようなことがあった。
昆虫のカブトが死んだので、どうするのかと思ったら、百貨店へ行き、
「電池が切れたから交換して下さい」
と頼んだという出来事。また、祖父の葬儀の日に登校をしたきた子に、
「勉強が大事だから、学校へ行きなさ いお父さんが言われた」
と、ことがショックだったことと時代が変わったと感じたことを記憶している。今から三十年近く前の話である。
最近の出来事でも、
「私のお母さんはよく叱ります。弟が いたずらをしてもわたしをしかりま す。わたしなんていない方がいいの です。死にたいです。」
というような文を書く子がいる。高学年の子供同士が、
「あほ、お前なんか、この世に役立た ないじゃ」
と、その人の存在を否定するような言葉を平気で使っている。
生命の尊厳ということを考える時、家庭で、学校で「生きる」意味を考えさせる必要がある。
最近の子供は利口である。「生命の尊重」という意味については充分心得ている。それが、日々の行動や物の見方の中に生かされていないのが悲しい。 幼稚園児や小学生を対象に「潮干狩りで貝をとりすぎました。あなたはどうしますか」という問いでアンケートを求めたことがある。ほとんどが「海へ返す」という回答を寄せてきた。このことから考えると、生命に対する意識は高いと見ることができる。しかし、実際はそれが行為になっていないのが課題である。
日々の些細な行動の中に心を寄せ、生命の尊重への導きが今、一番大切なのである。そのための視点を挙げてみたい。
@物を大切にする心「もったいない」を大事にする。
生命の尊重は、人にも動物にも、物にも命があるということを体験させる事である。食べ物を残しても平気、物を粗末にしても平気という生活の見直しが必要である。
かつて、知人から、次のような話を聞いたことがある。
遠足の日、水筒に入れたお茶が飲みきれず持ち帰った孫が、それを捨てようとしたのを見て、祖母が、それを止めさせた。そして、
「このお茶には、お茶の葉が入ってい る。温める熱も時間も入っている。 よい遠足にして ほしいというお母 さんの心も入っている。捨ててしま うのはもったいないので、水筒に残 ったお茶で床をふきましょう」
と諭したという。孫は、物を粗末にするのはいけないことを知ったのは言うまでもない。
日本の心は「もったいない」が支えていた。しかし、いつの間にか生活の中から消えいるとしたら大変なことである。
A畏敬の心を育てる
生命を軽く考えるようになったのは「畏れ」の感覚が鈍くなったからであろう。つまり、道に外れたことをしたら、大変な事になるという気持ちがだんだん鈍くなっているからであろう。
少し前は、後ろめいたいことをすると「こわい」という気持ちがあった。父親・先生・警察等、そして、何よりも「ばちがあたる」という言葉を一番おそれた。
「嘘ついていないでしょうね。道に外れたことをしたらばちがあたる」
と言われると、母親はごまかせても、目に見えない神仏にはかなわいないという気持ちがあった。畏敬の気持ちへの芽生えはこのような所から生まれた。
信仰心のある家庭の子は、神仏を拝する祖父母や両親姿を見て育っている。そして、手を合わすことを自然な姿で身につけている。畏敬の心は、教えて育つものではないだけに、その心が欠如していることの大きさを感じる。
B機会を捉えて人を大事にするする心を育てる
現在の子供は、少し前の子供より感性が優れている。それだけに、機会を得たら、理解は早いし、行動も素直になる。
小学校一年生の教室で、いじめのような出来事があった。一人の子が「きたない」とか「小さい」という言葉を浴びせられることが日常的に続いた。一人一人が大事にされていないと知って、「私の生まれた時のこと」を家族から聞くという学習をさせた・
自分の誕生を待っていた家族の様子や祝福されて生まれてきたことを知った子供達は、自分だけでなく、誰もが家族にとって大事な人であることを理解するのに時間はかからなかった。
放っておいては子供の心は育たないのは当然である。機会を見つけて「大事にされている私」「私と同じように大事にされて育っている友達」に気付かせるような指導が必要である。
C人の向こうに人がいることに気付か せる。
生命の尊重を道徳で学習した日、次のような作文を書いた子がいた。
今日もまた、ぼくの家の横を救急 車が走っていった。ぼくの家は、大 通りにあるので毎日といっていいほど救急車が通っていく。ああ、また どこかで事故があったんだなと思った。今までそんなに気にもしていな かったのに今日はちょっとちがった。
交通事故か何かがあったのだと思 うけど、一人の生命をめぐつて多く の人が心配している。救急車の人も そうだけど、家族の人も心配になる。 もし、その人が死んだらどうなる のだろう。死んだ人もかわいそうだ けど、それによってかなしむ人もた くさんいる。その人のお父さん、お 母さん、おばあさん、おじいさん。 兄弟、先生、まわりの人、それ以上 の人が悲しむだろうまだある。その 人が、死んでしまったら、その人が、 生きていて出来たかもしれないいっ ぱいのことは、どうなるのだろう。 死ぬということは、いままでのこと も、これからのことも、みんなそこ でおしまいになってしまうことなん だなと思うと、交通事故だったとい うだけではすまないんじゃないかな。
一つの命がなくなるという事の意味を考えた日記であるが、人の向こうに多くの人が互いに支えあっていることに気付くことができたら、今よりは互いを大切にする子供が育つのだないかということを感じる。
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生命の尊重に関わる教育を緊急の課題として、家庭・学校・社会が取り組みたいという気持ちが強い。 |