見当たらない(平成20年7月3日) 
                     放課後、玄前で帰るかどうか迷っている子(5年)に出会った。 
                      「どうしたの」 
                      と、聞くと帽子を探していたということ。その時は、気づかなかったが、今、振り返るとすごいなと思える言葉。 
                      「帽子が見当たらないので探していたのです」と言う意味の「見当たらない」を使っているのである。こんな場合、「なくなった。」「取(盗)られた」「隠された」と主語が自分でなく、相手になることが多く、混乱する。つまり、自分は悪くないという前提があるから。ところが、この日は違った。 
                      一緒に探した。見つからない。「帰る前にはランドセルに置いていた」という。 
                      「名前は書いていたの。」と尋ねると「書いています」と。しばらくさがしていると、 
                      担任が駆けつけて「帽子を預かっていますが。名前がありません」と。 
                      ここで、また、躓く。「名前は書いていた」「名前がない」「帽子はある」 
                      不思議なひととき。「あす、誰か、間違ったかもしれないので確かめるのでいいですか」など、しばらくのやりとり。 
                      結局、帽子は、「見当たらない」と言った子のもの。名前は、名前を書くところでなく、別の所に小さく(老眼では読めなかった)書いてあった。名前を見逃すのは当然。子どもの「書いた」も担任の「書いていない」と正解。 
                       
                      クラスの子が、名前がないので、届けたという経緯は説明を聞かなくても理解でき、一件落着。 
                      この子が、帽子がないまま家に帰り、「なくたった。」と伝えたとしたら、信頼度も急落。不信感だけが残るできごと。「見当たらない」の言葉の響きが快く残った放課後のできごたった。と 
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