京女式ノート(23/8/5)
@ノートを大事にした授業の意味
附属小学校では、書くことを大事にしています。黒板を写す、教科書の文を写す、考えたことを書く、感想を書くなど授業では、多くの時間を書くことに充当しています。
書くことを大事にした授業の成果は、勉強がしっかりできるということです。よいノートにするには落ち着いて書く時間が必要です。細かなところまで行き届いた心が求められます。これらは、「がんばりなさい」といわなくてもノートには学習態度が表れてきます。書くことは、確実に学力も向上します。
しかし、ノート指導を始めた頃は、書くことは、授業の端に置かれていたのです。書くことは面倒なことと思われていました。話したり聞いたりした方が手軽であるから当然ですが、余分なことだとと思われていたのだから当然です。
書くことは、自分の生きた証を残すことです。「あの日、あの時間、あなたは何をしていましたか」と問われた時、ノートは有力な記録になります。書くことを大事にするということは、勉強する自分を大事にすることです。
A書くことは考える力を育てる
書くことは時間を必要です。面倒な活動です。話すことや聞くことと比べれば手間も必要です。
何でも手っ取り早く済ませる時代にあって、書くことを大事にする授業は、かなりの時間と手間をかけています。しかし、その分、考える力の育っています。手軽さでいくか、時間をかけるかは授業の分かれ目です。考える力は、急に育ちません。「考えなさいといわれて育つものでもありません。授業で、ノートを書いている時間が、考える時間です。 何を書こうかと思えること、どのように書こうかすること、全てが考える力を育てる基礎になるのです。さらに、丁寧に、美しくという冠が付きます。鉛筆を持つ機会がほとんどなくなった時代に、このような貴重な時間を小学生時代に得られることは、大人になって「よかった」と思ってもらえる学習法です。
勉強に手間と時間をかけ、考える力を育てる方向に向いています。
B宝は板書とノート
附属小学校の誇りはたくさんあります。中でも、先生方の板書は美しく丁寧です。毎日、黒板を見て生活をする子ども達ですから、板書が美しいので、言語環境として充分整ったていると言うことができます。私の経験から、板書が上手な先生が、学校に何人かおられますが、誰もが上手というところが宝です。
ノート指導に着目したのも、板書の上手な先生が揃っておられるというのがきっかけでした。毎日、美しい文字を見ているのだから、その通りにかけかば上手になるという気持ちで、板書を写すことから始めました。始めは面倒に思っていた子も、美しいノートができると、満足感が生まれ意欲が湧いてくるようで、学習に集中するようになりました。
そうなると、授業が落ち着いてきます。書く時間が確実にあるわけですから、考える力も育つのは当然です。
Cノートを超えるノート
数年前、書店で『東大生のノートは美しい』を見つけました。すでにノートについて指導を積み上げていた時でした。その時の感想は、東大生より子ども達のノートの方が美しいと思いました。その時は、京女ノートを世に問うという気持ちはありませんでした。ところが縁あって世に問う機会を与えて頂きました。
編集の方の手腕もあり、よい本にしていただきました。ありがたかったのは、持ち物として鉛筆、筆箱やの見直しや鉛筆の持ち方の指導を全校挙げて行う機会になったことです。何よりも、子ども達が、「書くことが勉強」と思ってくれるようになったことです。某ノートを超えるノートとして附属小学校の子どものノートは誇りです。
Dノートで育つ子ども達
ノートを見ていると、その時々の様子がよく分かります。落ち着いている時は落ち着いたノートになっています。気持ちが勉強に向いていいない時は、ノートが乱れています。何よりも、ノートを大事にするようになったことです。
職員室で話題になることは、勉強や生活の真面目さがノートに表れてくるということである。「このごろ、頑張っている子」という話題になると「ノートにも工夫の跡が見られ、おちついて勉強をしています」とノートが引き合いに出されます。
「ここのところ丁寧に書いているね」と話しかけると、勉強のないようから、ノートのまとめ方まで丁寧に説明をします。
話し言葉では育たない力だと思っています。定規で線を引くという活動でも、落ち着いている時とそうでない時が違います。先生の指示通りに作れる、自分のノートが作れる、工夫をしたノートが作れる等、段階はあります。もう一度読み返して下さい。ある日、ある時の子ども育ちがよく分かります。
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