▼ピカピカのランドセルを背負って一年生が入学してくる。その日を待っていたように桜が咲く。嬉しさを体一杯に表す子や少し控えめに喜びを表す子等。ふとチューリップの歌「どの花みてもきれいだな」という歌詞を思い出す。夢をふくらませてというけれど本当は不安ばかりだろう。しかし、それが経験になり、判断力や選択力になる。多くの場合、不安は「かわいそう」に置きかえられ、親や教師が安全な道を与えてします。だから自立時間がかかる。
▼一年生だけではない。二年生も三年生もみんなうれしい新学期である。かつて、二年生を指導したとき、初めての作文を「二年生になって」という題で書かせたら通り一遍の作文だったのに、「二年生になったぞ」と文末を変えただけで生き生きした文章を書くようになって驚いたことがある。「ぞ」の一文字が心を捉えたのある。「教育」もまた同じ。「教」に力を注ぎつつ「育」の視点から見ていくと新しい指導の知恵が生まれる。「希望」と「期待」にこだわっている。
▼忘れものをした子がいる。「新学期早々困った子」と捉えると注意をするだけのになり「教」にとどまる。見方を変えてこれを生かせないものかと知恵を絞ることが「育」になる。例えば、宿題を忘れないでできた子の昨日の一日を語らせる。計画的にしてきた子もいるが、夜中に思い出して眠い目をこすりこすりした子もいる。遊びを辛抱して宿題をした子もいる。「忘れ物」がきっかけになって子どもの群像が見えてくる。それを教えてくれた子が目の前にいる。全員忘れ物をしなくなったと安心するうちはまだまだと思う。忘れ物ゼロの奥にある心を見抜けるようになる力がひつようである。
▼視点を変えれば陳腐なことも新しく見える。それが四月である。 |