変化に対応(26/09/01)
▼平成の始まった頃、「変化の対応」といういことが話題になった。 日本では人はこれまで増え続けてきた。「密」の時代を進んできた。逆に、これからは、「疎」に向かっていくということについて
▼このことについてある大手広告会社の研究者が、次のように話しているのが心に残った。
「密の基調となる価値観 は量でした。企業でいえばやみくもに売上高を追いかけることになります。密の価値観に縛られすぎると“疎の時代には量が確保できない”ということを過剰に心配することになります。しかし、利益重視に転換すれば、状況は違ったものになるでしょう」と。結論として「退化は悪化でなく変化としてとらえれば、変化に対応すればいい」という。
▼この考えを教育改革においてみる。その頃、生活科が生まれ、その後、総合的な学習の時間が生まれた。生活科が誕生した時、研究会で「生活科」という名が付いただけで、多くの参加者が会場を埋めた。研究会では支援が大事だと言われると、指導をせず、子どものなすがままに放っておき、「自主性を大事にしています」という教室が増えた。結果として「活動あって指導なし」と評されることになった。「総合的な学習の時間」が生まれた時も同じ現象が教育界を支配した。その後、10年以上、各教科の研究は確実に手薄になっていた。今も、その現象は変わらない。外国語教育・特別支援教育・学力調査・教育相談・道徳教育の教科化・ユニバーサルデザイン等々
▼教育界は新しい言葉に弱い。教育の世界に哲学を感じない。教員の採用試験にルソーやペスタロチー、『エミール』や『隠者の夕暮れ』の名前が出ても、答えは書けても、ほとんど内容を知らない受験生は多い。
▼何時の時代においても教育改革は必要である。その成果正否は、教師の意識改革がどこまでできるかである。大手広告会社研究員の言葉の背景に企業哲学を感じる。ここ数年の教育の世界には哲学を感じない。教育における「変化の対応」って何だろう |