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国語科教室
授業の錯覚
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▲「今日の授業はよかった」と思っていたのに、授業後の感想を読んでいくと、それほど力になっていないとおもえるようなのに出会うことがある。何も授業で工夫らしいことをしていなかったのに、子供が楽しいと言う」という報告があった。
「何もしていないのに」という言葉は格好良い。が、本当は授業の節々で、細かな指示や配慮があったのだろうと推測している。そうでなかったら
「楽しかった」などと子供はやたらに言わないからである。

▲幼・小・中・高校の先生に授業を観てもらったことがある。中学の先生は「板書を早く、丁寧にノートに写していたのが良かった」という感想を述べられた。
高校の先生は「授業が始まる前に机の並びを整え、学習に必要な教科書や鉛筆の用意する所まで丁寧に指示をしたのがよかった」という感想であった。
先の言葉を借りるならば「特に工夫をしたわけでもない」という事になる。

▲よい授業をしようとすると教材や教具を色々と用意をし、目新しいものをするのが大切だと思うようになっている時がある。しかし、それは、一時の気持ちを動かすことはあっても、長続きしないことが多い。
特に、国語の授業は、文を読む、正しい漢字を使って文を書く、自分の考えを正しく適切な言葉で伝えるということを繰り返す学習である。

▲派手ではないが、「何の工夫もない」ように見える学習が学ぶ意欲を育てるのである。良いかどうかは子供が評価をする。
 
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