国語の授業像が見えなくなったという話をよく聞く。「活動あっての指導なし」という批判の声を聞いて久しい。授業が難しくなったのか、子どもの扱いに教師がとまどっているのか、先が見えないという声もある。
国語の授業批判として、子どもが教材に出会った時は、真剣に取り組むのに、時間をかけるに従って興味をなくするという意見がある。が、最近は、授業の目的を含めて、方向さへ危うくなっているという心配も話題になる。他教科との関わりの中で、国語の授業との違いが見えにくいということが話題になるときもある。
そんな中で、国語の授業は、言葉の力を育てるには、教えるべきはきちんと教えないといけないという考えと、子どもが楽しく学ぶことが大事なのだから、先ず、子どもが喜ぶ学習活動を考えることが大切であるという、両極に見える考えがある。両極の距離は長く幅が広い。
授業は、この幅広さの中を行きつ戻りつするものでるはずなのに、どちらかに決めたがる癖がある。大事なのは、子ども一人一人に、生きて働く言葉の力を身につけさせるということである。ここでいう生きた言葉とは、自ら課題を持って学ぶ授業というものがあるならば、それは、両極に中央に位置するものである。が、なかなか、その実像は見えてこない。
滋賀県教育の重点事項に学校の基礎基本を考えて学校経営をするようにという指導がある。あえて、学校の基礎基本といっているのは、一般的なものではなく、それぞれの学校で大事にするものをみつけるようにという行政からの発信である。
一般に基礎基本というと、読み書きそろばんに代表されるものを考えるが、そうではなくて、社会生活を営む上で、あるいは、よりよく生きていく上で、大切なものは何かを問うところから生まれたものが、学校におけるという意味なのであろう。
そうであるとすれば、国語の授業にも当然、授業の基礎基本というものがある。それが見えてきたら、時代の流れがどのようになっても、大きく構えていられるのではないかと右往左往する姿を見て思う事が折々にある。授業の基礎基本について、今まで、そんなに深く考えていなかったので、基礎基本は何かを考えることは新鮮である。しかし、行き着くところは、良い授業であり、言語の力を育てるということになる。 |