▲「書く」活動を授業に取り入れると読む、標語を書くという教師の活動が生まれる。
多くの場合、「がんばって書きました」「しっかり見ています」という態度面の中心になる。
しかし、それでは、どの教科の評語であるかはっきりしない。
▲理科のノートに「まじめに観察しました。ノートのまとめもよくできています」と書いているのを見て、この評語で意欲が涌くのだろうかと思った。そこで次のような提案をした。
▲理科の学習として、「数値」「大きさ」「観察」など書いている子のノートは、「良い」の評語は、「正確」であるかどうかを目安にする。そうすると、理科の学習って何かが理解できる。
一方、子どもの感想は「わかった」「よかった」で終わることが多い。大事なことは、「何がわかった」「何に驚いた」であり、「それはどうしてか」につながるものが見えてこないと「分かった」にならない。
理科という教科の特性からら、緻密に表現するのが大事である。
▲この考えでいくと、国語の場合は「言葉」である。
たとえが「今日の勉強はよくわかった」「面白かった」「楽しかった」というような表現で
満足する子どもでは、言葉の力を育てる足場を失う。当然評語も「がんばったね」
「しっかり書けていますよ」ということで満足させないのである。
「やまなしを学習した。十二月の様子を想像した。想像するために様子がよく分かる言葉を選んだ。
『黒い大きな丸いもの』という言葉を最初に見つけた。でも、これはやまなしであるの
にその言葉を使っていないのが不思議だった。このように書くことで、かにの驚きが納得できる」
このような感想が生まれると、確実に国語の勉強をしているという手応えがある。
評語も当然、「自分が感心を持った「黒い」や「丸い」の捉え方に向くようにする。
作文では、「様子を分かりやすく」書くという場合、「様子がよく書けています」では、
書く力は育たない。「ゴールが目の前にあるのに足が前に進まない。
横を、はあはあ息を吐きながら走っていく友達にぬかされた。」という作文では、様子に関わる部分を指摘し、
くわしくとは何かを指導する必要がある。
▲評語は、態度面の言葉を並べるのではなく、教科の特性を滲ませた内容を具体的に
示すことである。評語を読んでいくと、育てたい力が見えるようしていく工夫が必要である。
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