汚れた体操服(23/10/10)
大人の言葉は、子供の意欲を高めることもあるし、臆病にさせることもある。小学校一年生を担任した時の体操服の出来事がそうである。
入学式、給食指導と慌ただしく日が過ぎ、ようやく、落ち着いて授業ができるよになった6月。その日は、子供達の大好きな体育の時間があった。真新しい体操服を着て運動場に集まった子供達。
雨上がりの運動場は土が軟らかく、水たまりがあちこちにできていた。止めればよかったのに、少し冒険心のあって、かけっこや鬼ごっこをした。水たまりをよけて走るという器用さは子供にはない。泥が背中まではね上がる。真新しい体操服はたちまち、どろで汚れてしまった。それが一年生にはうれしいのである。
教室へ戻っても楽しさの余韻が溢れた。幸せな気分で泥にまみれた体操服の自慢大会のような雰囲気が漂っていた。教室から解放され、存分に動いたことの満足感からである。
この日のこと家庭でどのように話題にしたのかは定かではない。が、翌日、意気揚々と登校してくる子と、意気消沈とした態度で登校する子がいた。
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一人の子は、家へ帰ると、泥で汚れた体操服を差し出し、
「お母さんに、今日は楽しかったよ。幼稚園で遊ぶより楽しい。
小学校大好き。洗濯しておくよ。」
と、得意なって体育の時間の話をした。その汚れた体操服を見て 「お母さんもうれしいわ。喜んで洗濯するわ。汚れたのは宝物だ から。がんばったら汚れるもの。よく頑張ったのだから、」
と、洗濯を引き受けた。この子は、意気揚々と登校した子。
一方、意気消沈してきた子は、体操服の汚れを叱られたらしい。 体操服を何回も見て、クリーニングでも白くならないだろう。新調したばかりの体操服を見てため息をつくお母さんの様子から、何か悪いことをしたように思ったのだろう。
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その後、一人の子は、図工の勉強では、絵の具の汚れを気にせず大胆に色遊びに取り組む、粘土遊びでは、顔中に粘土を付けながら学習に取り組んでいた。もう一人の子は、服の汚れを気にして、活動が控えめにすることが度々あった。「思いきってやるのですよ」「」大丈夫だから」と指導をしても、控えめに行動することが多かった。きっと泥で汚れた体操服を見る悲しそう姿が忘れられないだろう。親の気持ちが分かる優しい子だった。きっと、心に感じることがあっただろう。
汚れた体操服のことについて、もう一つ思い出すことがある。
その日の放課後、耳元で「先生はかわいそうだね」と教えてくれたのである。断片的なその子の話をつなぐと次のようになる。
体操服を汚して帰った日の夜、お母さんは、お父さんに次のように伝えたらしい。話題は洗濯が大変なこと。
「新しい体操服だから、先生ももう少し考えて指導ををしてくださ れよかったのに。洗濯物が大変。洗濯に手間も時間もかかる。」
この話を聞いたお父さんが、「そうだね」と答えた。この子にはどうやら、先生は、お父さんやお母さんを困らせているのだと聞き取れたようである。もちろん、二人の話は、子供が寝てから。しかし、寝たふりをして聞いていた得意げに耳元でささやいていた。
その時、お父さんが、「そうだね」でなく「うちの子もたいしたものだ。母さん。喜んで洗ってやろうよ」と答えていたとしたら、「たいしたものだ」を胸に刻み意気揚々と登校してきたであろう。
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