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国語科教室
「みんな」のあいまいさ
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  親といえば親にとって、一番弱い言葉は「みんなが」ということでしょうか。
 これほどの力のある言葉はありません。子供は、その効果を知っていまから、何かほしいと

「みんなが、買ってもらっている。持ってないのは私だけ」とねだります。可愛い子ですから、それは大変と、あちこちを捜して買いに行った。後で聞いてみると、隣の子とその隣の子の3人で、学級では話題にもなっていなかったということは多いものです。

先日もあるお母さんから、こんな質問を受けました。
「学校では、この頃、名札をつけなくてもよい学校になったのですか。」と。
びっくりして、そのわけを尋ねると

「名札をつけて行かないので、どうした問い尋ねたら、みんなつけていない」とのこと。
うまく子供に乗せられておられました。

「みんな」というのを探っていくと、割合としては、良いことよりよくないことに使っている場合が多いようです。

「みんな」という言葉が、わが子だけのおねだりや言い訳で使われている場合は可愛いのですが、これが、学校のこと、担任のこと、子供の人権に関わってくると、簡単にうなずいてばかりはいられません。

「伝言ゲーム」というのがあります。国語の勉強で時々する言葉遊びです。
そのゲームは、ある意味を持った文を、正確に早く相手に伝えるというゲームです。
けれども、正確に伝わるということはめったにありません。

「少し赤くて美しい花が、3輪」なんてことだったら、3人ほどつないでいくうちに
「赤くてきれいなチュリップが、三輪車のような自転車に」
なんて勝手に一人歩きしてしまいます。

同じようなことが、「みんな」に関わるうわさ話にあります。
「みんなが言ってるよ」なんて言う話が、いつのまにか「あの学級では」になり
、あの学年、そして、「小学校の誰もが知っている」なんてとんでもない話
になっていることがあってびっくりします。

特に、それが子供をとりまく環境や人権に関わることになりますと大変です。
具体的なことは、挙げられませんが、とんでもない噂が、いかにも本当らしく流
布されることのないよう「みんな」の持つ言葉のトリックにうろたえないようにしていただければと思います。

「みんな」の曖昧さ、そのことでの失敗談。ある時、「実奈」という名前の子が
いました。「みなさん、本を出しましょう」といったら、本を出した子が一人。
後の子は知らん顔。「どうしたの。みんなが本を出さなくては、勉強できないでしょう」とたしなめると、「だって先生は、みなさん。みなさんって実奈ちゃんばっかり言うのだもの」と言われて慌てたことがあります。

「たれといたずらしたの」「ぼくだけじゃないよ。みんなだよ」
「どうして、廊下を走るの」「みんな、走っているもの」よくある風景で学習参観日での、
子どもたちの様子はいかがでしたでしょうか。
学校としては保護者の方をお迎えするということで、掃除も念入りにし、教室の整頓も朝の打ち合わせで申し合わせていました。
少しは、気持ちのよい、学習参観日だったと、快く思っていただければ嬉しいのですが。

ところで、気がついて頂けたでしょうか。玄関にあるげた箱(靴入れというのが今流でしょうが)夏休みに、PTAの役員様の配慮で補修とワックス塗りをしていただきました。大津駅前の東浦という名前で呼んでいた頃の旧校舎から現在の昭和町に移ったのが昭和30年代の後半から40年ですから30年近く使っているものです。傷みが激しかったのですが、お気づきのように子どもたちに不便を感じさせないものになりました

今学期になってからという訳ではありませんが、もう一つげた箱の変化に気づいて頂いただいているでしょうか。「靴を整えて入れましょう」の木の札の表示です。定位置のように、いつごろかわからいほど各げた箱の上に置いてありました。おそらく誰も心に留めない学校では、一番かわいそうな役割をしていてくれました。今学期、靴の整頓を子どもも先生も心がけていてくれますので、靴の整頓を呼びかける木の札は必要なくなりましたので、しばらく休んでもらっています。再び、げた箱の上に出てくることのないように願っていますが。先のげた箱の補修は、靴をきちんと入れるようになった子どもと、そのように、指導し教師へのPTA役員さまのご褒美だと思っています。(学校のこのような小さな変化を見守っていただけるのはありがたいことです。)

靴入れといえば、附小の靴の入れ方は子どもたちへは不親切な方法のように見えます。幼稚園では靴を突っ込んで入れるというやり方です。靴の先を前の板に当てるのです。が、小学校は靴の後ろをぎりぎり板に揃えるのです(言葉ではうまく言えませんので子どもさんに聞いて下さい)この方法は、随分知恵を出し、議論をしました。

意図するところは、一年生の子には、小学校へ入学した自覚をさせる場なのです。幼稚園と違うという、きっりとした気持ちを持たせる。それは、子どもが一番に学校をに出会うげた箱からというわけです。学校生活に慣れた学年では、靴を入れる時に気持ちを落ちつけて、教室の向かわせる。校舎へ入るまでには様々な気持ちの揺れがあるかも知れません。それを靴を整えるという少しの間で、気持ちを変えたり、落ち着いて教室に向かう体勢を整えさせるのです。いったん、靴を持ち、そして、揃えるという微妙な間が、落ち着いた気持ちへと導いているのです。 不親切なような靴の入れ方ですが、子ども生活を知ったり、その学級、この頃を知ることがあらわれているものです。

参観日にもう一つ気がついてほしかったとは、教室のカーテンのことです。夏休み前と違って、洗濯をして、清潔になっています。これは、評議員方が、夏休みに持ち帰って下さったのです。2学期、さわやか教室を感じて下さったとしたら、うれしいです。

環境は子どもの心を豊かにも、そうでなくもします。役員様や評議員の方にたよってばかりではいけません。一年生の前の花壇には、一年生の子どもと先生で花を育て、図書室前の掲示板には、新刊の紹介を、そして、玄関前や、会議室には最近の図工の作品を、武道場の前の花壇は事務の方にお手伝いを頼んでと、それぞれに心を配っています。子どもたちは、気づいてくれているかどうかは定かではありませんが、落ち着いて学びの雰囲気の、香り高い学校をと、めざしています。またご意見をお聞かせ下さい。

子どものことで言えば、「ちょっといい話」の仲間に入るのですが、ある教室での授業、詩を読むという学習です。色々な考えが出て、気持ちのよい授業でした。多くの子が発表もし、自分の意見も述べあいました。授業が、後半になり、まとめをするために、詩を誰かに読んでもらおうということなりました。

「読みたい人」というと、挙手する子があったりなかったりというのはいつもの授業ですがその後が違いました。
「今日、まだ発表の機会のなかった人に読んでもらおう」と提案をしたら、
「そんなの、ないわ」という子や不満そうな表情を見せる子がありました。

そんなかで
「ぼくら、自分の考えを言ったやから、こんどはまだ言ってない人に読んでもらったら いいと思う。みんなで勉強しているのやから。」

とつぶやく子がありました。大きい声ではなかったのでどの子にもそのことが伝わるいうことではなかったのですが、「この子は、広い心の子になるだろうな」と、思って、その子の顔を見直しました。みんなで学ぶ、ということの本質を、この子なりに捉えていると感じたからです。
「みんなで勉強しているのから」短い言葉ですが含蓄のある、よい言葉だと、ちょっといい気持ちになりました。

 吉永幸司

NO 平成7年10月15日

 
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