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壊れた作品(26/01/04) 

小学校の子供たちは、「お母さんはコワイ」と思っている子が多い。そのことを直接言うわけではなう、しかし、時々、自分にとって不都合なことを親に内緒にする子に、その理由を尋ねると、「コワイ」と言う。毎日、子供のことを思い、溢れるばかりの愛情を注いでいる。子供のためなら、何でもできる覚悟があるお母さんにとっては、引き合わない話である。が、子供たちは本気でそう思っていることは事実である。
たとえば、学校でトラブルが起きる。自分で伝えるのがこの子を自立させる上で大事だと判断して、お母さんにお話をするように伝える。問題は解決し、成長をした姿を見てほしいという気持ちがその背景にある。ところが、家で伝えることを伝えた瞬間、暗い顔をする子がいる。それほど表情は変えないが、平気な顔をしていても、結果は、家で伝えていない子がいる。叱られるからというのが理由。結果は、ウソをついたり、反抗したりすると子供になっている。これでは、愛情がそのまま子供に伝わっているかどうか疑問。
厳しく育てることは大事、叱ることも大事である。特に、反社会的な行動や人間関係を壊すような言葉や行いは年齢を問わず大人の責任として教えておくことが大事である。大切なことは、子供を叱り、諭した後の一言。愛情のある一言が子供の心に届かせることである。そこには、成長を温かく見守る心があるから。本来はお母さん大好きである。余計な言葉を言わなくても、ハラハラして見守っているお母さんの親の姿に子供は敏感である。お母さんの気持ちが分かるからである。次の事例は、お母さんが立派と感じたある日ある時のできごとである。
1年生の夏休みの宿題は工作であった。真理さん(仮名)は夢のおうちを作った。お母さんの応援もあってできばえもよく満足する作品なった。夏休みが終わって登校する初めての日。学校へ持って作品を持って行った。持って生き方がよくなかったのか、袋に入れる納め方が悪かったのか、学校に着いた時には、自慢の夢のおうちは壊れていた。友達も上級生も担任の先生も壊れた工作の作品をみて、「かわいそう」と思い、慰めの言葉をかけた。真理さんは、最初は壊れた作品をみて途方に暮れていた。が、先生や友だちから同情をされる度に自分がしたことが大変なことであると思い、急にかなしくなってきた。そして泣き出してしまった。泣くことでさらに同情の輪が広がった。
悲しい顔をして家に帰った真理さんを見て、学校で何かあったと感じたお母さん。しかし、多くは語らなかった。問いただすこともしなかった。真理さんが自分で話すのを待った。話をしないのはあまりに出来事が複雑だったのだろうと思ったからである。かなしい顔をしたまま時間が過ぎていった。夜になった。お風呂で、ぽつりぽつり話し出した真理さん。お母さんはその言葉をつないで、事柄の大体を理解した。慌てなかった。そして、出来事について考えさせた。お母さんは、工作が壊れたことはかわいそうだけれど、そのままでは、これからは臆病で自立しない子になっては困ると考えたのである。帰ってから、お風呂までの時間がお母さんに考える余裕を与えたのである。工作は壊れたことは仕方ないけれど、そのことでたくさんのことを学ばせようと。
お母さんと真理さんが考えたことは、壊れた工作を見て、多くの人たちが心配をしてくれたこと。(これは、自分のことを心配してくれる人がたくさんいることを気づかせた。)大事にしている物でも、壊れることがあるっこと。(物の扱い方について)そして、夏休みの宿題は、2年生も、3年生も続く。一年生で「しまった」と思ったこと。これは、2年生になっても、3年生になっても役立つ大事な経験であることを話したのである。どこまで真理さんが理解できたかどうかは定かでない。いい話であることには間違いがない。
もし、夏休み作品だけに目を向け、作品にかけた努力がむくわれなかったことだけに目を向け、「どうして気をつけなかったの」と子供を責めるお母さんだったとしたら、真理さんはますます、自分の失敗を重く感じ、行動に自信を持てない子に育ったあろうということは容易に考えることができる。
真理さんの出来事だけでなく、失敗に見えるできごとを生きる力に変えることは多い。 一年生の当初は、躓いたり、足を滑らせて転んだりする子が多い。目の前で、足を滑らせて転んだ子を、じっと見ているベテランの先生の対応を見たことがある。先生は、手助けもしなかったし、「大丈夫ですか」と問いかけて近寄ることもしなかった。軽く滑っただけで、怪我をすることはないと判断しての対応である。転んだ子は、最初は悲しそうな顔で先生を見た。が、先生が手助けをしくれないことを知り、自力で立ち上がった。その姿を見て、「偉いよ。」と声をかけ、「自分の力で立ち上がれることができたね。強い子になったのだよ」と励ました。先生はこの子は自分で立ち上がれる力があることを知っていた。だから、手助けをしなかったのである。
このような事例は、毎日のように子供は出会う。運動会で転ぶ、友達と上手に遊べない、自転車や二輪車ができない等。これら出来事の中には、その都度、解決した方がいいものがある。時間をかけた方がよいものもある。時には見た目には冷たく見える対応をすることがある。だいじなのは、親の自己満足でなく、将来を見通した、本当の愛情という目で見ていくといいうことである。目の前の「かわいそう」の奥に、子供に元気を与え、生きる力の要素が絡んでいることを見抜く力を、持ちたいと思う日々である。

 
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