籠を水につけよ(24/12/20)
「籠に水をつけよ」は『やさしい法話シリーズ6』(本願寺出版局)からお借りした
言葉です。(次の文は引用です)
その籠を水につけよ。わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふ
(『「蓮如上人御一代記聞書』八八)
(「籠を水の中に浸して置きなさい。籠に水を入れれば洩れてしまうからである。そ れと同様に、自分自身をみ教えの中にひたして置けば、み教えは身も心にしみ入る ことであろう」と仰せになった)。
ある人が、「私の心は、籠の中に水を入れたようなもので、み教えを聴聞している間は有り難いなと喜ぶのですが、その場を退くと、そうした思いがうせてしまうのです」
そこで、蓮如上人は巧みなたとえで答えました。「お互いの身は籠のようなものてある。水に浸した籠を引き上げると、籠から水は洩れてしまう。だが、籠から水が洩れないためには、籠を水に浸しておけばよろしい。そのように、仏法の水に聞き忘れ勝ちなわが身を常にひたして置けば、法味がしみ透ることである」と仰せになった。
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少し前になります。職員会で、どのよう学校にするかということを話し合いました。職員会の議題は、よい学校をめざすでした。その時に、「籠に水をつけよ」を学びました。
教職員の実感として、附属小学校は、子ども達の自覚と保護者の皆様のご支援のおかげで学校として望ましい姿に近づいているという気持ちを持っていました。これは教職員の誇であります。しかし、細かなところで、指導が行き届かないこともあります。また、、小さく見えることですが、道を踏み外しそうなこともあります。落とし穴にはまりそうな芽があることも知っています。ですから、それぞれに心を痛めていました。
職員会では、学校を、今よりも、もっとよくするための智慧を出し合いました。その時に「籠に水をつけよ」が紹介され、それぞれの理解で納得をしたのです。
よいことをいくら積み上げても、子ども中に残らないことの虚ろさ。この子のために時間をかけ力を注いでも指導が行き届かないという脆さ。このような実態を籠と水とで考え合ったのです。つまり、籠に水を注いでも水は溜まらない。どうしたらいいか。水の中に籠を入れる。つまり、学校全体を水にたとえて考えました。まるで、なぞなぞを解くようでした。 細かなもの、目先のものに拘らず、学校を水の入った器と捉え、よい水にすればどうだろうかと考えました。その過程をうまく説明はできません。が、共通理解をしたことは、絶えず、水を意識して子どもたちに向かい合うということです。籠と水のことを、全校朝礼で話しました。2学期の始業式には、慈悲の心にも触れ、「籠を水につけよ」の気持ちを込めて話をしました。
2学期、子どもたちの心は強くなりました。少しのことで心を乱さないように努めています。例えば、約束を守れない子がいます。その横で、自分も約束を守れない子の行動に心が傾いているのし、じっと辛抱して入る子がいます。国語力から言えば、「自分の力が試されている。今が、大切」と自問自答する言葉を持っている子です。「今、辛抱していることがよく分かりました」と声をかけると照れていました。言葉で自分を律していたのです。子ども世界は不思議です。自分のいたずらに関心を持ってもらえないと、約束を守る子に戻っていきます。490人近くの子が一つところで生活をしているのが学校です。家庭の様子と違う姿を見せる子ども達が、豊かな学校生活を過ごすには、子どもなりの努力が必要です。自分を律する言葉を持つことも籠と水の話に置きかえるとよく分かります。
「籠に水をつけよ」の深い意味は分かりませんが、職員会で知恵を出し合ったことが子どもの心に響き、希望や意欲に結びつく言葉の習得と国語力の育成になればいいな思い、育ちを見守っています。
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